施設長が語る!あなたが介護の仕事をすると得れるもの、気づく事
介護福祉という仕事が与えた自分への影響
筆者が経験した介護という福祉の方法、それは後の人生を大きく変える事になったのは間違いありません。
それまでダメな人生を送っていた筆者の人生が変わる出来事、それが介護との出会いでした。
福祉なんて他人事と思っていたところから、人生の激変までを検証しながらひも解いてみましょう。
そもそも福祉とは?
福祉とは何ですか?それが最初の研修での質問でした。ホームヘルパー2級(現在は介護職員初任者研修)での講義のスタートです。
これを聞かれて答えることの出来る人は、経験者でも中々いません。
実際筆者も何となく「良い事」ぐらいにしか考えていませんでした。
ここでは辞書に出てくるようなお手本の答えは割愛しますが、ざっくり言うと「困っている人に手を差し伸べる」ような行動や言動に似ています。
介護だけでなく、保育や障害者支援も福祉のひとつでもあります。何も大げさな言葉ではなくとも、「人のため」と考えたその瞬間から福祉は始まっています。
福祉は愛情にも似た不思議なものである事を覚えておくと良いでしょう。お題目のような答えは自分で調べてみて下さい。
調べる事から既に福祉は始まっている!?のかもしれませんね。
社会に貢献する方法
福祉に必ずついて回る言葉が「社会貢献」というものです。筆者はコレも何となく「恵まれない人を助ける」なんて、曖昧な感覚しか持ち合わせていませんでした。
でも福祉が必ず社会貢献に繋がるか?は疑問です。あくまでも社会貢献は「社会全体に対して」何かする事であり、福祉はそんなに万能ではありません。
自分の手は二つしかなく、そこに抱える事の出来る相手はせいぜい一人が限界でしょう。
現在の福祉は「=社会貢献」みたいな部分が多く、少し重い責任感すら感じられます。
社会貢献を福祉と一緒に考えると、福祉の手軽さとやんわりした感じが一気に重くなってしまいます。
まずは目の前のその人を助ける、そんなイメージでいた方が良いでしょう。
それが結果として社会貢献に繋がります。
福祉を続ける→社会貢献=自然な流れ
何故福祉を続けると社会貢献になるのが自然な流れなのでしょうか。
改めて考えてみました。
すると意外な図式が見えてきます。
筆者は介護という「ひとつの形」で福祉に携わりました。
これは偶然でしかなく、老人ホームに就職して介護をするという普通の流れです。
その中で感じた事が「介護を受ける高齢者の行き場はどこなのか?」というものでした。
家族のいる比較的恵まれた高齢者はいましたが、やはり身寄りもない行き場をどうしていいか分からない高齢者も沢山いたのは事実です。
例え家族がいたとしても介護を受ける事になったのを理由に、施設へ入所している訳です。
誰も望んで施設に入る人はいないでしょうし、普通に考えて自宅で生活したいというのは健常者であっても同じです。
言ってしまえば「仕方ない入所」が殆どなのですから、もしこういった高齢者の行き場が無かった場合、それは社会の問題となっていきます。
その「社会の問題」を解決する手立てのひとつが老人ホームであり、その解決の最前線で仕事をするのが介護職であるという訳です。
ここで初めて「介護を続ける→社会貢献」という流れが生まれます。
これを話さずして「介護≒社会貢献」の図式は成り立たないのです。
介護を始めた人間の心変わり
「介護を受ける人はかわいそう」というのが社会全体に何となくですが、定着しているイメージではないでしょうか。
筆者も「かわいそうな人を助ける」なんて気持ちで介護職がスタートしたのを覚えています。
介護は外から見ているのと、渦中で見続けるのとでは大きく違った理解があるような気がします。
外から見ているといつまでも「弱者がかわいそう」なんて気持ちが抜けません。
でも実際介護をしていると、ただ普通に生活をしているだけなんだと気付かされます。
介護とはかわいそうだから助けるのではなく、「生活を営むために手助けをする」だけの事なのです。
一般的に老人ホームなどでは集団生活が行われ、規模は様々ですが絶対に一人で生活出来る環境はありません。
一人で生活出来るならそもそも老人ホームに入所はしないでしょう。
「死ぬまでは生きる」というのは当然ですが、介護を受ける事になってもこれは変わりません。
ですが高齢となると、生きるために少し不足する部分が出てきたりします。
それを補うのが介護職なのです。
全部を抱えきれる訳もありませんから、介護職はチームプレイで動きます。分担作業なのです。
どうですか?
介護の見え方が変わってきたでしょう。
「かわいそう」が消える瞬間
介護職に終わりはありません。
ですから忙しさに紛れていってしまい、「かわいそう」が消えていく事もあるかもしれません。
ですが介護を受ける高齢者を見ていると違った見方が出来るというか、見えてくるものがあります。
それは私たちが生活を何不自由なく出来るように、高齢者もただ「生活をしているだけ」なのです。
場所が老人ホームである事以外は、不自由なら不自由なりに生活がなされている、それだけだという事に気付かされます。
「かわいそう」などと失礼にも値するような感情だと気付きます。
老人ホームでは、高齢者の生活に「家族ではありません」が寄り添う事になります。
就業時間の間だけでも「生活時間を共有する」瞬間が多くなります。
ウチにいるばあちゃん、と変わらなくなる瞬間があるという事です。
好き嫌いは当然出てきますし、中には苦手と感じる相手もいるかもしれません。
でも家の生活に置き換えてみれば、ケンカもしますし仲が良いこともあるでしょう。
そうなると「弱者」とか「かわいそう」なんて感情が変化してくる、そんな感覚が生まれてきます。
介護が与える自分の人生への影響
偶然にも筆者は、高齢者を相手にした介護という仕事でした。
言ってみればお世話する相手は皆人生の先輩です。
悲しくも?望まなくも介護を受ける事になり、老人ホームに入所して介護職である自分と出会う訳です。
誰も画策していませんし、計画もありません。
本当に偶然でしかありません。出来る事なら老人ホームという「施設自体必要ない事」が理想でもあります。
そして、介護してもらう相手(職員)も選ぶことは出来ないのです。
呼ばれて行くと「お前は呼んでない」と、訳も分からず叱責される事も沢山ありました。
性格的に言える方はまだ良いのでしょうが、大半が「了承したのか分からないまま」介護を受けています。
でもそうやって生きていく生き方を受け入れてやっていくしかないのです。
どうでしょうか?自分に置き換えた時、そんな事想像もつきません。
そう、介護を受ける高齢者は健常者である我々には想像も出来ない未知の世界にいる、そんなところかもしれません。
21歳で介護の世界に飛び込んだ筆者は、こんなに身近な地元で起こっている異形の世界に驚かされるばかりでした。
たかだか20代前半の若僧であった筆者が衝撃を受けたのは言うまでもないでしょう。
この驚きの中身は様々かもしれませんね。
介護職という居場所を見つけた瞬間
それまで特にやりたい仕事も無かった筆者にとって、介護の仕事を続けることは「弱者を助けよう」というよりは、「こんな自分でも役に立ってるのかも」という想いでした。
別に人生に悲観している訳ではありませんでしたが、夢も希望も特になく将来なんて描いているはずもありませんでした。
多くの人はそうかもしれませんが、人生全うするその瞬間まで計画出来ている人は少ないでしょう。
筆者も同じで、特にやりたい事はありませんでした。でも周りは夢に向かっている人もいたり。
何となく仕事があるから始めた介護でしたが、そこにやりがいと自分の居場所を見つけたのは事実でした。
否応なしに何かしら呼ばれますから、それをこなしているだけでも充足感のようなものは感じられました。
それが積もり積もって、勘違いでも何でも自分の居場所を見つけたような気持ちでした。
そうなってくると介護という仕事の面白さがまた変わってきました。
筆者は未だに「自分の人生に影響を与えた、ハッキリとした何か」が見えている訳ではありません。言うなれば模索中とでも言っておきましょう。
しかしながら、社会問題化している介護に携わっているだけでも、「何かをしなくては」と言う気持ちが湧いてきます。
その「何か」も完全には見えていません。ただ、何か大きな物事の最前線にいる事は分かります。
介護が他人事ではない事も理解出来ます。そして介護とは万人に共通するものでもあります。
いずれやってくるかもしれない介護という事象を、少しでも事前に知れるというのはやはりある程度の安心にもなっていますし、心構えも出来ました。
人生に与えた影響はもしかするとこんな事なのかもしれません。
多かれ少なかれ影響を与える事は間違いない!と断言出来ます。時間をかけゆっくりと、高齢者の時間軸のように見えない何かが少しずつ見え始めています。